剪定という言葉から、まず思い浮かぶのは「形を整える」「きれいに仕立てる」といったイメージかもしれません。
でも、私たち「日和屋」が庭木と向き合うときに感じているのは、もっとやわらかくて、ちょっと暮らしに寄り添った感覚です。
たとえば朝。
庭に出て、ふと木を見上げる。
昨日より葉が大きくなった気がする。枝先に、小さな蕾がついている。
そんなふうに、気づきの積み重ねの中に、木の“声”が見えてきます。
剪定とは、木と話すこと。
風の通り道をつくってあげたり、光を届けてあげたり。
まるで、暮らしの中で家族の髪を整えるような、ささやかな営み。
この文章では、そんな「心地よく暮らすための剪定」の話を、少しだけお伝えできればと思います。
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🍃 剪定は、“手入れ”じゃなくて“対話”かもしれない

「この枝は残したい」と思ったとき、剪定が始まる
「剪定ってどこをどう切ればいいんですか?」
よくいただくご質問ですが、私たちが大切にしているのは、“切る”よりもまず“見る”こと。
この枝は勢いがあるから活かしたいな。
この芽は次の季節にきっと伸びてくるな。
そんなふうに、木の姿を見ながら感じる時間こそが、剪定の出発点なんです。
樹形のバランスだけでなく、木がどんなふうに呼吸して、どんなふうに空とつながっているのか。
それを感じ取ることが、木との対話のはじまりだと思っています。
切ることで、風と光が通る道が生まれる
剪定の目的のひとつは「空間を整える」こと。
枝を透かして風が通るようにすると、病気のリスクが減り、木全体が元気になります。
光が差し込めば、下草や新芽も育ちやすくなる。
整えすぎず、でも整えなさすぎず。
そのちょうどいい「間合い」をつくるのが、私たちの役割です。
たとえばお茶の時間に、日差しが木漏れ日となってテーブルに落ちる。
そんな小さな風景が生まれるのも、剪定の力です。
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🍃 「切らない」ことも、優しい剪定
毎年切らなくても、木はちゃんと育ちます
剪定というと「毎年やらなきゃ」と思われがちですが、必ずしもそうではありません。
たとえば、去年たくさん剪定したなら、今年はちょっと見守る。
徒長枝(とちょうし)が少ないなら、ほんの少し整えるだけにする。
剪定は、木の様子と相談しながら決めるもの。
「今はこのままで大丈夫そうだね」という選択肢も、立派な剪定のかたちです。
人と同じで、木にも「休みたい年」「伸びたい年」があります。
そのタイミングを見極めてあげることが、ほんとうの意味で寄り添うということなのかもしれません。
観察こそが最高の手入れになる
毎日庭に出て、木の様子を眺める。
それだけでも、剪定の力になります。
「枝の伸び方が急だな」「虫がつき始めてるな」
そんな小さなサインに早く気づけるようになると、大がかりな剪定をせずに済むことも。
そして、その観察の時間は、案外自分自身の心にも気づく時間になったりします。
木を見ることで、気づけば自分の呼吸もゆっくりになっている。
剪定とは、暮らしの中の“気づき”の積み重ねなのかもしれません。
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🍃 剪定は、暮らしのリズムに寄り添ってくれる
「毎月第3土曜は庭の日」そんなふうに暮らせたら
庭仕事って、どうしても「大変そう」と感じがち。
でも、“暮らしに組み込む”という視点で見ると、もっと自由でいいんです。
今月はこの枝一本だけ切ろう。
次は落ち葉を集めるだけにしよう。
そんなふうに、庭との距離感を自分で選べると、気持ちが楽になります。
剪定という行為も、休日の散歩のようなもの。
心に余裕のあるタイミングで、ふと木に手を差し伸べる。
そんなやわらかい関わり方があってもいいんです。
木の変化に気づけると、心にも余白が生まれる
「あれ、枝が伸びたな」「花のつき方が去年と違う」
そんなちょっとした変化に気づけるのは、自分の心に余裕があるからこそ。
剪定は、木のためだけじゃなく、自分自身の心を整える時間にもなります。
植物とともに暮らすということは、季節の移ろいや小さな成長に目を向けるということ。
それは、ほんの少しだけ、毎日を丁寧に生きることに似ているのかもしれません。
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🌱 まとめ:剪定は、ふたりでつくる風景
私たち「日和屋」が大切にしているのは、「剪定=お手入れ」ではなく、「剪定=暮らしの一部」という感覚。
庭木とふたり暮らしをするように、よく見て、よく感じて、静かに関わる。
そして、ときには手を差し伸べ、ときにはそっと見守る。
そんなやさしい関係が、木とのあいだにも育っていくと信じています。
植物がそこにいるだけで、日常が少しやさしくなる。
そして、自分の暮らしにも小さなリズムが生まれてくる。
これからも、木のある暮らしを。
そして、心地よい“剪定”との距離感を。
日和屋は、そんな毎日をそっと応援しています🌿